日記-12月

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斜里岳(1545m-97番目の山)

12月1日 土曜

293日目-7㎞

The view on the way up Shari-dakeトム-夜間の気温は、マイナス12℃まで下がった。ボトルの中の水は、完全に凍っていたし、汗で湿ったジャケットは、ダンボールのようだった。

登山道は小さな小川の流れに沿って走っていたので、何度もその小川を渡らなければならなかった。運良く、ほとんどの場所が凍結していたけれど、もろい雪の橋が自分の重みで崩れて、一度小川に落ちてしまった。

1時間後、道は2つに分かれた。一方の道は、頂上へ続く高い尾根に沿っていて、もう一方の道(短い方の道)は、その小川に沿っていた。少しでも濡れるのを避けるために、尾根に沿った道を使うことにした。樹木で覆われた険しい坂道を登るのに、太ももあたりまで積もった雪の中を苦労して進まなければならなかった。一度、尾根で、簡単に雪の上を歩けたことがあった。風が堅い甲殻の代わりのようになって、体重のほぼ75%近くを支えてくれたから。尾根から見た頂上の景色は壮観だったけど、そこまでは、まだまだ長い道のりのようだった。

The view from the top of Shari-dakeProofshot at the top of Shari-dake午前11時に頂上に到着して、午後5時か6時頃までには下山するという計画を立てていた。すでに午前11時だったけど、まだこれから木が生い茂り、深い雪に覆われた斜面をトラバース(山腹を横切ること)して、頂上までの険しい登山をしなければならなかった。父さんは僕がどうしているか聞くために正午に電話をしてきて、まだ最後の一登りで苦戦していると聞いて驚いていた。

午後1時半に頂上に到着した。眺めは壮観だったが、その辺りに座る事はできなかった。2・3枚、証拠写真を取ってから、グリセード(靴で滑り降りること)で最初の険しい下り坂を滑り降りた。森林地をトラバースするのに登って来た時と同じくらいの時間を費やしたが、他の部分を下るのは、それよりもかなり早かった。深い雪に覆われた坂道を登るのには苦労するけど、下山する時はかなり速く進むことができるし、場所によっては、滑り降りることもできる。

午後6時にトイレのある場所まで戻った。もう既に暗くなっていた。父さんに電話し、一晩ここに泊まって、朝一番で下山するつもりだと伝えた。5時間の登山をするのに、11時間もかかってしまった。

12月1日 土曜-7日 金曜

ポール-結局は札幌から東京までずっとヒッチハイクをした。(北へ向かう途中で一緒に過ごした何人かの人たちと、イングリットとティムのおかげで)日本は、ヒッチハイクするのに一番適した国に違いない。まず、とても安全である。そして次に日本人はとても快く受け入れてくれるし、気前がいい。一度人を車に乗せると、責任を持って連れて行ってくれるし、最高の気配りをしてくれる。車に乗せてくれたほとんどの人が飲み物をくれたし、そのうち3人はランチまでおごってくれた。無事に着いたかを確認するためにメールしてきてくれた男の人もいたし、僕をさらに南へ連れていってくれる人が見つかるまで、サービスエリアの駐車場を周ってくれた人もいた!そして、「わからない」といえば、ゆっくりとより大きな声で話してくれるのはイギリス人だけではないとわかったのも良かった。

12月2日 日曜 

294日目-12.5㎞ 

網走バプテスト

Tom and his father Bill with the Tomabechi familyトム-さらにもう一日、とても寒い夜を過ごした後、午前5時に出発した。登る時につけた足跡をたどることができたので、その道は歩きやすかった。空には雲ひとつなく、ヘッドライトよりもいい具合に、月が道を照らしていた。ある場所ではフクロウがウォーキングに参加し、木から木へと飛びながら興味深そうに僕を見ていた。

朝7時半に待合せ場所に到着し、2・3分の間、父さんとササキさんが現れるのを待った。網走(北海道の東北海岸地方の港町で、毎年冬に海を覆う流氷で有名)で教会に行く事になっていた。ササキさんは有名人で、教会にいる多くの人が彼を知っていた。礼拝はすばらしかった。その後、苫米地さん一家に「おでん」をご馳走になった。

食事の後、お別れの挨拶をして、買い物と衣服を乾燥機にかけるために急いだ。前日、父さんは海で釣りをしている人を見て、僕が次の山を登っている間に釣りをする計画を立てていた。教会の会員の一人が、親切にも父さんとササキさんに釣具を貸すと言ってくれたので、羅臼岳(次の頂上)へ向かう途中にある彼の家へ立ち寄った。釣具を貸してくれただけでなく、夕食(彼の奥さんが作ったとても美味しいお寿司)にも招待もしてくれた。食事の後、泊まる民宿を見つけておいた宇土路(羅臼に一番近い町)に向けて出発した。お風呂の後、ハリーポッターを1章読んで、眠りについた。

12月3日 月曜 

295日目-11.5㎞

ベア―カントリー

トム-この旅の中で一番とも言える朝食を取った後、車で羅臼岳へ向けて出発した。道路は登山口の7㎞位手前で閉鎖されていたので、その日の始めのうちは、凍った道路をとぼとぼ歩くことになった。

登山道は海抜200mのところから始まっていたので、最初の樹木に覆われた険しい区域では、通り道に雪が15cm位しか積もっておらず、進むのは簡単だった。ここを過ぎた後、深い雪に覆われた低木の多い高原が現れた。この道は現地の野生生物にも人気のある小道-熊でさえつい最近使っていたくらい!-なので、始めは、その登山道を進むのは本当に簡単だった。けれども、1㎞位進んだところで道がなくなり、登山が難しくなり始めたことに気づいた。スノーシューを着けて、雪の中に沈むのを防いだり、頭の高さまである藪や木にひっかかるのを防いだりした。この深い藪と格闘したり、枝にからまったピッケルをはずしたり、進路を確かめたりするのに、さらに2時間を費やした。なんだか眠れる森の美女の目を覚ますために、戦いもがきながらいばらの道を進む王子になったような気がしてきた。そのうちに、正しい道筋を示したピンクの札を見つけ、進むのがずいぶん早くなった。

次の登山で頂上から300m下の鞍部に通じる凍ったガリー(もろい岩が詰まった狭い谷)を少し登らなければならなかった。太陽が沈みかけていて、峰々は、ピンク色のライトのお風呂につかっているみたいだった。ガリーを登っていく途中、くぼみを作るのに理想的な大きな雪の吹きだまりを通過した。鞍部の手前で登るのを止めて雪のくぼみに泊まろうかと真剣に考えたけど、結局風はそれほど強くなかったので、一人用テント(冬山用に設計されたわけではない)で対処できるだろうと判断した。

雪が少ししか積もっていない場所を見つけて、凍った地面に杭を打ち込みテントを張って、張り綱を岩にくくりつけた。夕食の後、大切な睡眠を取るためにリラックスしていた。30分後また風が吹き始めた。一つずつ、杭がはじけて石が動いた。支えは弛み、テントは、たわみ始めた。布地は、僕の顔に向かってパタパタと揺れていた。何かすべきだったけど、もし外に出ればテントは吹き飛ばされそうだった。リュックサックを中に引っ張って(バケツ一杯の雪も一緒に)、一端の錘にして、他の部分を押さえつけるために、丸くなって寝た。これは少し効果があったけど、そのパタパタした動きは眠りを妨げた。真夜中頃に、料理用の鍋(愚かにも表に出しっぱなしにしていた)が、暗闇に飛んでいく音を聞いた。

羅臼山(1660m 98番目の山)

12月4日 火曜

296日目-14km

The proofshot for Rauso-dakeトム-この旅行で2番目に最悪な夜(超最悪の6月24日を見て!)の後、風でこれ以上道具をなくさないように気を付けながら荷造りをし、荷物を鞍部に残して頂上へ向かった。視界は乏しく、風は雪煙を目に吹き付けてきて、その水分がまつげを一緒に凍らせてしまった。苦労して雪の坂道を登り、険しく岩の多い凍った頂上へよじ登らなければならなかった。頂上で証拠写真を取って、さくらんぼの種くらいの大きさの氷のかたまりをまつげから取り払った。

Mr Sasaki and all the fish鞍部に戻って、夜の間に飛んでいったテントの杭を買うために、キャンプ場をチェックした。いつもどおり、下るのは登るのよりもずいぶん早かった。前日2時間かかった区間は15分ですんだ。(正しい道を進んできたおかげで!)父さんとササキさんにに会うことになっている労働者用の簡易事務所に12時に到着した。彼らがまだ来ていなかったので、親方の田中さんが僕を中に入れて、コーヒーを作ってくれた。田中さんは、たぶん日本で一番人里離れているであろうと思われる道路で働くことがどのようなものか話してくれた。昔、彼らが居たとき、ピッケルを高くあげている僕ら3人の写真を取った。

さて、車に戻って、次の目的地は僕の妹のフローラが生まれた場所であり、そしてササキさんのお母さんが住んでいる場所でもある、旭川だった。僕が山にいる間、父さんとササキさんはバケツ4杯分もの魚を吊り上げたので、車に荷物を詰め込むのに、いつもよりこつがいった。長いドライブだったので、少し車を止めて、何かを食べ、足をストレッチしなければならなかった。ササキ婦人は、ジンギスカン(羊をホットプレートで料理するもの)という料理を作ってくれた。次の日に旭岳に登る予定だったので、さらに早く床についた。

12月5日 水曜

297日目

やっかいな雪

トム-旭岳へ向かう途中、新しい鍋とスキーゴーグル(父さんから僕へのクリスマスプレゼント)と補給用の食料を買うためにスーパーに立ち寄った。登山口までの道は凍結していて、一度、雪のかたまりに突っ込むはめになった。午後1時過ぎに車から降ろしてもらった。スノーキャット(雪を平らにするために使われる大きな機械)が登山道をきれいにするためにやって来たので、始めはラッキーだと思った。けれども500メートル進んだ後、きれいになるのは始めから平らだった最初の区域だけだと気づいた。残りの登山道は1.5mもの新雪に覆われていて、そこを登り始めたけど、自分が腰のあたりまで沈んでいくのがわかった。(スノーシューをつけていても)もし、バンガローまでこの雪の中を歩き続けたら(夏は歩いて2時間)、木々の中で道に迷うだろう。始めから道に迷うのを避けるために、バンガローまでつながっているロープウェイの下を歩いて登ってみることにした。けれどもロープウェイの下の雪もかなり深かった(僕の胸くらいまで!!!)。今日のところはこれで切り上げなければならないと確信した。

父さんに電話して、ササキさんがUターンして僕を迎えに来られるかどうかを聞いてみた。電話をするのは憂鬱だった。夏に旭岳の頂上に登るのは難しくない。以前に2回登っていて、そのうち一回は夏で、もう一回は春だった(スキーで下山した)。しかしながら、この旅で登ろうとした時の状況は、僕の手の届く範囲を超えた所にあった。もし僕が登るなら、雪を固めてくれるわずかな陽気と、理想的な天候が必要だった。そのためにはどのくらい待てばいいのかな?

僕らは車で旭川に戻り、取れたての魚(すごく美味しい)を食べた佐々木さんの家に向かう前に、古い友人のところにちょっと立ち寄った。翌日は利尻山へドライブする日だったので、遅くまで起きて、手品のうまいササキ婦人と少ししゃべる余裕があった。

12月6日 木曜

298日目

北への長いドライブ

トム-稚内(北海道最北端の港)から利尻行きの午後2時のフェリーに必ず乗れるようにするため、早めに出発した。ハリーポッターは読み終わって、初期のアルプス山脈登山者達の功績についての本を読み始めた。かつて彼らが道具を使ってやっていた事は、最近では危険と言われる事ばかりで、驚きだった。

北へ向かう途中、凍結のせいで道路から外れた2・3台のトラックを見た。12月から3月までの間、北海道のほとんどの道路が分厚い氷に覆われる。もし、その道路わきを歩いていたら、どうなっていただろう。時間通りにフェリーターミナルに着いた。天気はそれほど悪くなかったけど、利尻山の頂上は雲で覆われていた。平均海面(海抜5㎝)のところに雪がほんの少ししか積もっていないのがわかった時は嬉しかった。その日に泊まる民宿を見つけて、天気予報を見るためテレビの前にドスンと腰をおろした。翌日から2日間は吹雪で、その週の残りの日は雪の予報だった。それを見て、呆然とした。すぐれた登山家であるオーナーが、しゃべりに上がってきたけど、それほど楽観的には聞こえなかった。朝まで待って、その日何をするか決める事にしたが、すでに答えが出ているような嫌な気分だった。

12月7日 金曜

289日目

降参

トム-朝6時半に目を覚まして、カーテンを開けた。曇っていて、雪がゆっくりと地面に吹き積もっていた。どうみても吹雪とは言えない。けれども、2・3分後、風が吹き始め、雪は激しい疾風を伴って降りだした。利尻山は1999年の3月のもっと良い状況の時でさえ、何とか登ってスキーで下りて来ただけだった。山の上方の斜面に、風が打ち付けられているのはわかっていた。たくさんの選択肢があった。1」利尻(キャンプ)でじっとして、天気が変わるのを待つ。2」旭岳に戻って、天気が変わるのを待つ。3」峰と峰の間の凍結した道路少し歩き始めて、天気が改善したら頂上へ登る。4」降参して切り上げる。

利尻に留まらないことに決めたので、始発の9時のフェリー(もっと遅い時間のフェリーはおそらく強風のためキャンセルされるだろう)に乗った。フェリーの中で、座って自分の選択について検討した。その山を制覇するためには、相当な時間待たなければならなかった。簡単な事だと思っていたウォーキングは、道路が凍結していたせいで、登山よりも危険になったかもしれない。もし道路わきを歩いていたら、車やトラックが僕を避けるために急ハンドルを切らなければならず、そのせいで制御がきかなくなって、スリップして道路から外れたり、さらにひどいことに、往来している車に突っ込んだりしたかもしれないと考えられた。

決断は難しかった。僕のプライドは「できる」と言っていたし、僕自身もやり遂げたという感覚を味わいたかった。また同時に、僕の良識は「もし続けていたら、自分たちの身を危険にさらすことになっていただろう」とも言っていた。なぜまだ続けたいのか、自分に問い掛けた。それは、他の人たちのためではなく、むしろこの3年間自分を奮起させ続けた事を完了させ、この冒険を成し遂げた最初の人物になるという願望を叶えて満足するためだった。プライドを飲み込んで、打ち切る事に決めた。自分を元気付けられることが2つあった。今やめることで、お金の残金が少し変わるので、地雷除去の為に充てることができるし、故郷でクリスマスを過ごすためにもなるとわかった。

さて、みなさん、これで終わりです!このサイトをチェックしてくれたこと、メールで僕らを励ましてくれたこと、祈ってくれたこと、この旅のうわさを広めてくれたこと、地雷撤去のための僕らのゴール達成を手伝ってくれたことなど、本当にありがとうございました。僕らには、まだまだする事がたくさんある。帰国したら、慈善団体と誓約したお金を集めなければならないし、この旅や地雷問題について人々に伝えるために講演もしたい。ビデオも編集したいし(才能あるベンの弟、アンディの手助けで)、たぶん本も書きたい。(もしクレイジーな出版社が見つかれば)

この旅行で一番良かったところはどこかと聞かれて、一つの事だけを挙げるのは難しいけれど、これだけは言える。山に登ることは楽しいけど、もし人との出会いが無ければ、今回の旅行はたくさんの空腹と汚れでだけで終わって、本当につまらないものになっていただろう。僕らを泊めてくれた方々には特にお礼を言いたいです。ルースとギャレス、ピート、ペニー、ディーンとミホ、トレナ、ノボル、マット、リン、シャナ、ティム V、レーチェル、ティム C、アンディ、アンドレ、キャット、アンジーとニナ、リックとライアン、ダンカンとマット、サトウさんとフジコさん、トム、ポールとジャネット、メアリー、服部さんご一家、ティム H、エレンとナオミ、ハッチ、イングリッド、フィル、シェーン、ロビンとデビッド、岡田夫妻、親切なサマリア人、サトウ夫人。

名前は挙げていませんが、他にもたくさんの人達に出会いました。(一緒に泊まらなかった人達)でも、アップデートした日記の中で名前を挙げています。僕らは、決してみんなのことを忘れません。これからも連絡取り合おうね。

12月8日 土曜-12月18日 火曜

Tom presents the AAR flag back to Ayaka Arai from AARポール-日本での最後の週は、この歩く旅に関係した人達と、僕の家族が宣教師をした時に友達になった人達など、多くの人に会う事のできる東京で過ごした。最終的にハリーポッターの本を2冊読み終ることができて、精神的にもイギリスへ戻る準備が出来た。とてもわくわくしている。

12月19日 水曜-12月20日 木曜

ポール-ヒースロー空港の到着口を通過したとき、大規模な声援で迎えられ、カートの上の荷物は全部、あたり一面にころがり落ちた。ポスターと風船とたくさんの笑顔でいっぱいだった。混乱して、上手い具合に設置されている到着口のパブの椅子に、ドスンと腰をおろした。することがあって立ち上がって、パブに戻ってきて、それからやっとリックとライアンがコーナーに座ってくすくす笑っているのに気づいた。彼らはビジネスでロンドンに来ていて、僕らに会うためにどうにか時間をつくって来てくれたのだった。彼らが真正面に座っているのに、僕がずっと気づかなかったので、おもしろがって笑っていた。

たくさん話をして、笑ったあと、僕の家族とベンの家族は、借りていたミニバスに乗り込んで、ケニルワースに戻った。ベンと僕が何度も(何ヶ月間もだと思う!)夢見たカレーをテイクアウトした。翌日の朝、地元のテレビニュースのインタビューを受けた後、ベンにさよならを言った。3人の内の誰かにお別れを言うのは、10ヶ月半ぶりだった。

あとがき

ベン-ここしばらくはイギリスの家で過ごしていました。なので、日本での最後の週については、その出来事からしばらく期間を置いて記述されることになります。手短に旅の終わりについて紹介して、その後どのように過ごしたかを振り返るつもりです。さらに、ヒースロー空港で受けた歓迎についても書くつもりです。

そういうことで、山と、まだ終わっていなかった話に戻ります。継続性の無さと、メールアクセスが悪かったことがきっかけとなって、この出来事を心の中で振り返っただけになってしまったことを読者の方々に謝らなければなりません。

別れ

トムと僕との山での別れのところから再び始めます。道具や食べ物を交換する時もほとんど話さず、冷静な作業だった。その時何を考えていたのか本当に思い出せないが、今振り返れば、イライラして、ほとんど自分自身に腹を立てていた。「こうでありさえすれば」的な考えや、口には出さないののしり言葉ばかりで、どうすれば上手くいくかという思いやりは全くなかった。そうでなければ、実際、自分自身をどうやって理解すればいいのだろう。決して友達を山に一人で残したことはなかったし、もちろん一人で登ったり歩いたりしたこともなかった。チームを分裂させるのは、どう見ても間違っていると思ったけど、「トム、一緒に行くよ」と言えるような心理状態ではなかった。それに、トムの性格はよく知っているから、彼が続けたいのはわかっていたし。

そういうわけで、下山のために出発した。それからすぐにトムが雲に飲み込まれて、もはや姿が見えなくなった。約3㎞動くのに、4時間以上もかかった。雪の深さは、だいたい胸くらいだったが、時々首まで雪に埋もれた。今までで一番深い雪の中で前方へ進むのには、バックパックを前に持って雪を押すのが、一番楽だとわかったので、そうやって体重で押し広げるようにした。イライラは、自分の中で休止状態とはいかなかった。代わりに、借りていたビデオカメラに向かって、心の中にある感情を全て言葉にして吐き出した。

たぶん、この独特の出来事を振り返ることができる一番いい方法と、旅全体を表す概括的な言葉はと言えば、

「たとえ過去を変えることができたとしても、僕はこの経験を少しも、いや全く変えないだろう。これは、すごい経験で、僕らは何とか乗り切った。とにかく二度としない。肯定的な体験は否定的な体験をはるかに勝るけれど、僕らが経験したような生きることへの緊迫感は、肯定的なものより容易に思い出されてしまう。お気に入りの峠越えの時間は、つまらない仕事になった。時々一番なりたくない人間に変わってしまったし、ベン、トム、ポールの友情に莫大なプレッシャーがあった。」

山から出てみると、どれほど足首を痛めていたか、わかった。サポーターをして再び歩くのは大丈夫だったが、まだサポーターなしで登山靴を履いて歩ける状態ではなかった。それぞれの山のふもとまで歩いてトムが登るのを見るか、今日はここまでにするか、2つの選択肢があった。

ヒッチハイクでポールに追いついて、一緒に旭川へ歩いた。大雪山の山並みがきれいに見えていて、見たところ、天気はトムのトラバース計画に全面的に協力してくれているようだった。何時間も思案した後、僕はポールとのお別れに手をふって、南方向、ダニエルの家がある埼玉へ向かった。

イギリスへ帰る直前まで、およそ3週間、彼らには会わなかった。

ベンジャミン先生

旅を終えてから帰国までの3週間は、密かな神からの恩恵だった。明らかに休養が必要な足首のことは、さておき、ダニエルと一緒に過ごす時間が持てた。実際、想像していたよりももっと彼女と過ごす時間を持つことになった。ダニエルが働いている川越女子高校にまた英語を教えに戻ることを勧められた。全部で10レッスンを受け持つことになり、生徒達からの反応は、決して忘れられないものとなった。

教えたクラスはどのクラスも似たような感じで、14歳の女子学生が40人だった。ネイティブスピーカーのダニエルの授業だと思って聞きにきた生徒たちが、僕の授業を受けることになった。45分間の授業の間中、いろいろな度合いで絶えず明るい笑いが続く結果となった。

ほとんどの生徒は英語のレベルが高かったので、僕が日本にいる理由や、なぜ地雷撤去がそんなに重要なのかなど、かなり広範囲な話ができた。全部でおよそ400人の生徒に教えられたことに恩恵を感じた。時々彼らの返答にとても感動させられた。地雷と隣り合わせで生きなければならない人々がたくさんいるという悲しい状況を心から心配していた。何人かの学生は、授業の後、気遣いの言葉をメールで送ってくれた。ある生徒が書いたメール(英語から訳した):

こんにちは、ベン!トム、ポール。

私の名前はクミです

川越女子高校の生徒です。

川越女子高校を知っていますか?

あなたのガールフレンドのダニー(?)が私の先生です。

今日、学校に来ていましたね。

あなたに会って、最後の授業でのスピーチを聞きました。

スピーチは、おもしろかった!

世界では地雷がないのを望んでいます。

壁にかかった絵本を見て、驚きました。

1時間に3人が地雷によって死んでいるから。

悲しいです。

そういう人々のために何ができるのかを考えてみます。

私の英語は下手なので、もし間違いがあったら、すいません。

さよなら-

PS.あなたとダニーは、ナイスなカップルだと思います。(^-^)

それから、ダニーはすごくいい先生です!!!

私たちは、ダニーが大好きです!!

また別の生徒のグループは、お小遣いを集めて、地雷撤去にと申し出てくれた。僕らが住んでいる世界についての問題を話したら、何人かの人が僕に感謝をしてくれて、どうすれば手伝えるのかを考えはじめた。この経験は、すばらしいものだと思った。人が良い事のかけらを受け取って、他の人の為に何かをするという映画「ペイ・フォワード」を少し思い出した。

教えることの他には、東京で僕らを支持してくれた人達をできるだけたくさん訪ねるようにした。とてもたくさんの人がこの旅行を達成可能にしてくれただけでなく、人間にはこんなにすばらしい事を成し遂げる能力があるということを気づかせてくれた。家に泊めてくれた人、路上で会った人、お金を寄付してくれた人、食べ物を差し入れてくれた人、僕らの進行にインターネットでつきあってくれた人、手紙をくれた人、祈ってくれた人、話を聞いてくれた人、皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。みんなの愛が僕にこの旅を続けさせ、励まし、僕を変えてくれました。(みんなは、エンジェルです)ありがとう。

家への到着と終了

飛行機の中での最後の数分間には、不思議な感情があふれていた。自分たちのカバンを待っている間に僕らそれぞれがビデオ日記の最終撮影をして、家へ向かって荷物を押した。

到着エリアに入った時の騒々しさは、集まった人の数のわりには驚くほどすごくて、たれ幕が振られ、父さんと母さんに半狂乱でハグされた。弟は僕らのUKへの登場の様子を撮影していた。僕がその時感じたとおり、そのビデオの中でも一瞬、間が空いているように見える。それは、予想外の友達が待っていてくれたというすばらしい驚きのせいだった。母さんはリックとライアン(東京で助けてくれた人達、8月初めの日記を見て)が空港で僕らに会えるように手はずを整えていた。言葉が出なかったけど、ハグでその喜びを伝えた。

今、僕らは家に戻っていて、次に何をするかを考えなければならない。おそらくたくさんの手紙を書いて、きちんと返事を書けていない人たちにお礼を伝え始める必要があるだろう。この旅行についての講演もするつもりだけど、僕らのこの運動は基本的にはこれで終わりにするつもりだ。ウェブサイトは、そのまま公開しておいて、ぜひ皆さんからお便りを頂きたいと思います。

興味を持ってくれて、本当にありがとうございます。

ポール-一番つらいと気づいた事は、-あるいは“当惑した”がより適した言葉だろう-どうやってここでの変化の無い生活にもどればいいのかということである。自分の周りの皆に大きな変化をするように期待はしない。というよりも僕が前と違うから、難しいのだろう。もし僕のここでの人生がこの前の2月に出発したその場所からまた始められたらと思う。もしまるで日本に行かなかったように、10ヶ月間で4300マイルを歩いて過ごさなかったように、人生が続けられたらと。不思議な感覚だ。

家で過ごすことを本当に満喫している。こんな手ごろな値段で色々な食べ物を選べることも。毎日が、あっという間に過ぎてしまう。帰ってきてから、ほとんど1ヶ月が過ぎたけど、その日々がどこへいってしまったのか、わからないくらいだ。大学の理学療法コース-将来の計画の初めの部分で、ずっと頭から離れなかった-に申し込んで、時間を費やしたり、食べることや、-すっかりクリスマスだし-家族と話をするのにたっぷり時間を費やしたりした。2月の中旬にするアルバイトは確保してある。

この旅に関する全ての事へのやる気は低い。しばらくの間、そういう事はベッドに置いておきたくてたまらなかったけど、僕には今やるべきスピーチが少なくとも2・3個あるのは、わかっている。トムとベンは、あいかわらずで、時々僕よりも喜んで働いているように見える。トムは、スポンサーへの手紙を書き、100枚のスライドをチェックした。ベンとアンディ(彼の弟)は、スピーチの時に使われる4分間のビデオの制作に時間を費やしていた。僕が何をしていたのかは、いまいちわからない。

出発する前にいくつかの雑誌に書いた、なぜ僕がこの旅行をするのか説明したものをコンピューター上で見つけた。以下のような3つのキーポイントがあった:

「誰も4000マイルを歩いて、100山を登ろうとは考えつかなかった(考えなかった)。僕にできるちょうどぴったりの事で、僕にとっては挑戦する動機となった。

どうなるのか、本当にわからない。できるという確実性はない。未知の世界へ足を踏み入れるということであり、肉体的、精神的かつ感情的な限界への探検旅行-冒険である。

以前に行ったことがない日本を、実際に見て経験するためには、その国を隅々まで全部歩くのが一番いい方法である。」

いい意見だけど、どれも僕らがやった事をするのに十分な動機となる程の理由ではないと今わかった。(今なら日本を見るのによりよい方法を考えることもできる!)この3つの理由は、僕を日本へ連れて行き、旅を始めさせたけど、僕の達成を手伝ってくれたわけではなかった。僕を達成に導いたのは、世界中でたくさんの人々が祈ってくれていたことと、ある程度のトムの決断力と、ベンの山に対する強い興味であった。愛、サポート、向こう見ずな願望は、僕の歩みを止めることなく、さらに前へ進めさせた。

歩くことの主な理由は、地雷の影響を受けた人々のより安全な未来ために道をきれいにすることであると言ったが、歩いている間は決して実感できなかった。僕らが以下のような理由に従って歩いていたことは、頭ではずっとわかっていた。(上と同じ記事からとった):

「“『死』それがやってきて、受け入れられるとき、おそらく誰にとっても無上の喜びとなるだろう。しかし、生か死か不確かで人が横たわるとき、それはまるで木引き穴の上の(大のこぎりの下の)木の幹のようだ。恐ろしい頭が彼を見上げ、苦痛のうめき声が彼を切り裂いている。もしこれが自然の活力を望む-甘い希望-のためでなければ、あまりにも耐えがたいだろう。”(R.D.ブラックモア)

地雷は、やっかいなものである。地雷の影響を受けた人々に、いくらかの甘い希望を捧げることを試みるために、この旅行に参加している。この旅行を通して、僕らは地雷危機が公的な領域にあり続け、地雷原から地雷を取り除くのに十分な資金が集まることを願っている。」

僕のように、平穏無事に過ごすために、この情報を見て見ぬふりをしたりしないでください。

地雷は悪質で、まだ埋設されたままであり、まだ絶えず命を滅ぼしている。男性、女性、同様に子供の命までも。まだ未だに、それがおもちゃに見えるようにペイントしている人達がいる。たとえどんな事でも何もしないよりは良い。

僕らの旅行につきあってくれたこと、僕らをサポートしてくれたこと、そして地雷に立ち向かうために協力してくれたこと、ありがとうございました。僕らを助けてくれた方々の多くは、人生に感動を与えてくれたと僕達に感謝してくれています。それは、彼らの為にした事ではなく、僕らが満足して家に帰り、長い期間歩くことからの休息を得るためだったと言うべきだろう。僕の人生と人生観は、旅行中に助けてくれた人達、支持してくれた人達のおかげで変わりました。

「歩く旅」は終わったけれど、危機はまだ依然としてそこにあります。

どうか忘れないでください。

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