140日目―25km(トムとポールの歩いた距離) それで…どうする? ベン―「休んで治す必要があると、母さんと姉さんが言っているのは聞こえた。でも、僕は休んでいたくないんだ。僕たち3人でどうするか話し合った。僕は治すために何日か休みを取り、トムとポールは歩きつづけることで、富士山で7月21と22日にパーティーをするスケジュールは守れる。 一方では、僕はこの決定にとても抵抗があった。いくつか山を登れなくなるし、距離も稼げないからだ。それでも、きちんと治さなければならないのもよく分かっている。その上、ここにいれば病院に行くのも楽だし、オーストラリアから来て僕たちと一緒に歩く友達デブラと会うのに都合がいい。 レイチェルは、ポールとトムをもう1度、山へ送りに行った。僕は眠った」 ポール―「トムと僕がした残り半日の行動について、ちょっとした記録。 午後、うだるような暑さのなか、砂利道になったりアスファルトの道路になったりする道を僕たちは歩いていた。トムは山に戻ったことを喜んでいたが、僕はレイチェルの家に戻って何もしないで何日か過ごしたかった。時々、一番やりたくないことは歩くことだ。トムは、こうした葛藤が一度もないみたいだった。 その晩、明日行く登山口まで1キロという川のそばで、結構早めにキャンプをした。2人用のテントに2人で寝れるのはうれしい!」 妙高山(2454m―45番目の山) 7月2日 月曜 141日目―20km ポール―「日本人の計算によると、今日の歩きは16時間から18時間かかるらしい! そういうわけで、4時半に起きて6時15分には歩いていた。ばかげた時間帯が今では当たり前のようになってきている。今日は2山登るが、ありがたいことに登山口でバックパックを置いて行くことができたので、必要最低限持って行くだけだった。最初の小屋に思ったより早く着いた。1つだけ僕たちのペースを遅らせたのは、50人くらいの集団に道を譲ったことだ。ハイキング・シーズンは本格的に始まっていた。 最初の山まで、雪原を苦労して歩いたり雪の斜面をなんとか登らなくてはならなかった。気温が30度までじりじりとあがっているのに変な感じだった。1番目の山頂で見えたのは、ベンが落ちた山から尾根を伝って来ようとしていたルートで、それは昨日歩いた道路よりとても大変そうだと分かった。それが分かったのはよかった。 2番目の小屋で必要なものが入っているバッグも置いて、2番目の山頂に向かって競争した。雪がもっとあり、木は多く、砂地やぬかるみがあり、山頂はベンだったら喜んだだろうとても変な砂地だった。2番目の小屋に戻って、太陽のなかで食事休憩を済ませた。今日の歩きを終えたにちがいない4人と一緒だった。午後3時だった。この人たちはまともだと僕は思った。でも、僕たちはちがう。山を下りるのにあともう2時間だ。 今日の歩きで最高だったのは景色だ。平らな高原、湖、膝丈の笹があるアルプスの草地。山2つはトムにとっては不足で、もっと登りたがっていた。この男は、疲れるってことがあるのか? 体力はどこから来るんだ? 1時間後、山道を通ることで大幅な近道ができる、次の日歩く自然のコースの登山口で、奴はやっと休ませてくれた」 ベン―「何日か他の奴らと一緒にいなかったけど、体を治す時間がとても生産的なことだと判明した。僕自身、驚いた。レイチェルとパンやケーキを作っている最中、ジャーシュ・ラブ(彼もJETの先生)と会って話した。すると、彼の美しいガールフレンドがテレビ局で働いていて、僕たちのことを放送する交渉をプロデューサーとしていると言う。その上、僕たちのウェブページ半分を日本語に翻訳してくれて、インターネットに立ち上げられる状態なんだって! ジャーシュは僕に聞いた、やってよかったかな? もちろん、OKさ! これって、すごいよ!!! 長野県と、ここの先生たちは、このチャリティーと旅の宣伝にとって、とても強い見方だ」 7月3日 火曜 142日目―24km ポール―「もしうまく行けば今日登る山頂の途中まで行って、地図に記してある避難小屋までたどり着けると考えた。だから、また夜明けに歩き出した。しかし、朝6時から林の中の道を通り、沼地を抜け、焼きつける太陽の下で汗をかきながら、朝9時には山道を越えてしまった。午前の10時半には登山口にいてベンに電話し、オーストラリアから無事デブラが着いたのを聞いて喜んだ。 みんなが、僕たちに気をつけるようにと言うのは慣れっこになっていた。しかし、今日は新しいレベルになって、登山口にあるキャンプサイトの人たちは手に余ることはやめなさいと言ってきた(まあ、これは言い方の1つで、他の言い方をすれば『正気のさたじゃない!』だ)。それは、朝の11時のことで、日本人の時間でさえも暗くなる前に帰ってこられるのに。 僕にとって、この山は最近登ったなかで最高におもしろい山だった。登り始めのほうは、ジャングルのような森を抜ける尾根の壁を登り、それに川が続き、時には川にさえ入っていくのだ。後の方になると、山頂に向かう尾根に沿って道はくねくねとしていた。僕の足は疲れ、道は上がったり下がったりし続け、トムはまったく疲れていないようだった。暑かったが楽しい登山だった。山頂への登りはとてもきつく、いつ終わるんだろうと思わせるほど急だった。しかし、山頂からの景色は最高だった。尾根の片方は雲に満ちて、もう片方は雲もなく晴れていた。 夕方5時までにキャンプサイトに帰ってくることができたが、僕たちが手に余ることをやってのけたのを見る人は誰もいなかった。夜7時、僕たちは車に乗り、家とシャワーに向かっていた。時々、こんなに物事うまくいくのが変だった。アンディーは、何ヶ月も前にEメールで家に泊めてくれると言ってくれていた。さっき、彼に電話して明日泊めてもらえるか聞いたところ、今晩車で迎えに来て明日ここへ送ってきてくれると言うのだ。荷物を持たずに、彼のところに歩いて戻れる。彼は、何年か前にアパラチアン山道の2000マイルを達成したことのある僕たちと同じ長距離ウォーカーなので、どんなことでも喜んで僕たちの力になってくれるのだ」 143日目―22km 再会 トム―「夜明けに起き、アンディーは火曜日乗せてくれたところまで送ってくれて、ポールと僕は彼の家へ戻る道を歩き出した! 木の茂った山の谷は、田園に変わっていった。冷たいシャワーのことを想像することで、駆りたてられるようにできるだけ速く歩いた。午後は、服を洗い、シャワーを浴び、タンタンの本を読み、睡眠を取った。アンディーは午後5時仕事から帰ってきて、その晩ずっと彼がアパラチアン山道で体験したことや使ったギアのことを僕たちは話した。 ブーツ1組(最後の50マイルはテープで留めなければならなかった)、綿のショーツ1つ、綿のTシャツ2枚、50ドルのリュックサック1つ、ビニールのレインコート、道で拾った7フィートの木の枝(これは彼の一番大事な物だ!)で、彼はそのウォークすべてやってのけたのだ。夜7時、近くの駅に着いたとベンとデブラから電話があった。それから、ここ数日のことを報告しあって夜は過ぎていった」 144日目―40km スラック・パッキング トム―「アンディーはもう一回今日も迎えに来てくれると言ってくれた。そうすれば、バックパックなしでもう1日過ごすことができる(これを、アンディーはスラック・パッキングと呼んでいる)。 最初の2、3時間、迷路のような道路にある広大なりんご園を何とか抜けた。12時に中野市(長野市の北)に着き、昼食のために休んだ。その日の後半は、急で曲がっている道に沿って山に向かって行った。アンディーと6時か7時に2つの道路が交差するところで会うことにしていた。 予想したよりも遅く着いたが、残念なことにアンディーはそこにいなかった。8時まで道路の端で待ってから、ベンがアンディーの家に電話かけると決心。それは、携帯が使えるところまで歩かなければいけないということだった。デブラ、ポール、そして僕は暖かいアスファルトの上に横になっていて、ベンがどっちの道に行ったか見ていなかった。 夜9時、山で道に迷ったアンディーが現われた。続く2、3時間は、ベンを探して道路を行ったり来たりしたが、奴が歩いた距離(5、6キロ)を過小評価していて、それほどの距離を探していなかった。ガソリンが無くなってきたので、アンディーは町に戻って、ガソリンを入れ留守電を聞くことにした。 僕は待ち合わせの交差点にいて、ベンが戻って来ないか待っていた。夜中12時、雨が降り出し、暗闇に向かって僕は叫んだ『ベン、そこにいるのか?』。すると、ベンが歩いて戻ってきた。奴は、25メートルしか離れていないところにいた。 アンディーの家に電話をかけ、すべて大丈夫だと伝えてから、雨よけになるダンボール箱とくさいカーペット(ネコのおしっこの匂い?)を見つけ、その下で眠った。チーム内のコミュニケーションがうまくとれなかったために、今日は全体的に悲惨なことになった。でも、ま、少なくともいい勉強にはなったよ!」 145日目―25km 雨降りウォーク ベン―「疲れた顔したアンディーが、ダンボールキャンプ場に着いた。2、3日分の食料を7イレブンで買い物をしていたポールとデブラと一緒だった…安い買い物じゃないね! 僕たちは座って、食料をパッキングしながら昨晩のおかしな行動を彼らに報告して楽しませた。 時間が経つにつれて、天気も悪くなってきた。48番目の山の登山口まで歩いて、最高に変な外見のクモがいっぱいいる小屋に着き、そこで一夜を明かすことに。デブラは、酷使して痛む足をいたわった。彼女は、僕たちと休暇を共にすることがばかな事だったと分かり始めていた!」 7月7日 土曜 146日目 ベン―「今朝、しばらく誰も動こうとしなかった。睡眠不足だったので、48番目の山に登る前に朝寝坊することは妥当だ。登り始めに林の中を抜け、途中15人の登山者に会った。山頂近くに美しい高原があって、とても感動した。また、いい天気によってうれしさはさらに増した。下りる途中、山のガイドがやっていた山菜の講義のためにちょっと立ち止まり、それから道路へと戻っていった」 147日目―40km 嫌いな道路 ポール―「ここ何ヶ月間はあまりしていなかったことだから、僕たちが今日したことは道路を歩いていていたことでも言うに値すると思う。 今日は夜が明ける前に僕たちの1日が始まった。好んでそんなことになったのではなく、僕たちは文字通り登山口にキャンプしていたら、ハイカーが4時半に現れ始めたのだ。僕が思ったのは、いったい彼らは何時に家を出てきたかってことさ! 歩いているほとんどの日は、とてもいい日だった。道は、森の山や田舎を抜けてなだらかに続いていた。いくつかの道はとても静かだったので、新しいチームの流行に参加することができた――歩きながら読書することだ。道路上にいるのは、そんなに大変なことじゃないのさ! 歩くスピードが変わったり、その日やりたいことが違ったり、地図が1つしかなかったり、太陽が照りつけたりと、すべてのことが最近にはない程にチーム内のいらいらになった。けがもしているし、予定通りに富士山にたどり着かなければならないプレッシャーで、冷静沈着というわけにはいかなかった。 今日、デブラは大変だった。足が燃える石炭のようだった。なんてすてきな休日を僕たちは提供しているんだろうね。痛みが激しくなってきたので、ヒッチハイクをして、僕たちが来るまで休んでいた。 今日のハイライトは、キャットから連絡があった。タイ行きのチケットが僕たちの希望の日に入手可能な上に、値段も手に届く範囲ということだ。最初は費用の点で決めかねていたが、いろいろ計算をしながらその日歩き終わるまでに、電車とフェリーで韓国に行くよりそのほうがずっと安いだろうということになった(日本の旅行はとても便利で、とても高い)。また、山の高いところでその日を終え、キャットに先に進めてもらうことにした」 7月9日 月曜 148日目―42km ポール―「今日の最初に考えていた計画は、山を制覇し(道路からちょっとそれた簡単な登山)、ベンが抜糸をしてもらう時間に間に合うように町へ下りるというものだった。だから、また朝5時という時間に起き、6時半には歩いていた。 1時間道を歩いて、山道を越え、とても変わった田舎に入った。あまり木がなく、開けた場所で、噴火口があった。僕たちのガイドブックからは、49番目の山のことがまったくはっきりしなかった。そう名前のついている山ではない山に向かっている道が載っていた。それを説明してくれる人を探せなかったので、念のため2つ登らなければならなかった。 名前の付いた山は、火山が不安定なせいで立ち入り禁止になっていた。でも、山頂は道路から20分のところだったし、山を削っていた男たちがここまで来たなら上まで登ればいいと言ったのだ! とても規則に対して柔軟だ。とても日本らしくない。 2番目の山頂の登山口で、ようやく僕たちは気が付いた。他の人たちはみんな、コンクリートの道を登って、火山や月面のような地形を見るために、すぐ近くに避難所がある安全な場所へと向かっていたのだ。 何百人という人たちが、入ってはいけない所で僕たちが写真を撮っているのを見ていたということにも気が付いた! 2番目の山も火山だったけど、安全な死火山で、きれいな高山植物に覆われて、その写真に撮る人たちがいっぱいいた。火山自体は安全だったが、毒ガスのために山頂は閉ざされていたのだ。僕たちは、別にガスに遭遇しなかったし、山頂で記念ボードを置いてきた韓国人も大丈夫だったけどね。 今日の違法行為は、料金道路を歩くことで締めくくられた。歩いている写真は大きくしちゃだめだよ――デブラほんとうに見なかったんだから! ベンが抜糸する時間には町に下りてこられなかったが、おいしくてまともな食べ物を買ったり、病院がどこにあるのか探したり、橋の下で眠ったりできた」 7月10日 火曜 149日目―40km トム―「早い朝食をとった後、ベンと僕は抜糸をしに病院に行った。まず、入り口が開くのを待つのに1時間、それから医者と会うまでさらに1時間半待たなければならなかった。でも、手術室に入ったら数分で抜糸が終わり、すぐ出発できるようになった。糸がなくなって前よりとても調子がいいと、ベンは言った。 今日は、ひどく暑い日(34度)で、歩くのにいい日ではなかった。次の日歩く予定の道路が始まる地点で荷物を放りだし、吾妻山に向かった。50番目の山だ(やったー!)。午後2時、その登山道を歩きはじめ、登っている間ほとんど笹を抜けるのに格闘した。 この山は、歩くのがつまらない山トップ3に入るだろうけれど、百山の半分を登ったことで僕はとても気分がよかった(今では約2000マイル以上歩き、道のりの半分を達成したことになる)。下りる途中でとても変わっている巨大な地層を通り、デブラはそこでクライミングの技を披露した(とても、うまかった!)。 日没直前に登山道の終点に着き、ベンが自ら荷物を取りに走っていき(6km) 、キャンプを張ってくれた」 7月11日 水曜 150日目―26km トム―「午前中、僕らは歩き(デブラは、ヒッチハイク!)、浅間山の山道が始まるところを目指した。今日もまた暑い日で、道路は延々と続くように感じた。午後1時、その山道を歩き始め、低い山を登り終わったハイカーたちを何人か通り過ぎた。高い方の山は、有毒ガスと火山活動のせいで公式に立ち入り禁止だった。 低い山からの景色はきれいで、下にある活動していない噴火口は青々とした樹木に覆われ、切り立った崖に囲まれていた。その山頂から尾根をつたって、富士山にとても似ているもっと大きな山頂の下へ行った。その山の道を登っていくと、そこには立ち入り禁止のサインがあり、山頂に行けないようにロープが張ってあった。 言うまでもなく僕たちは山頂に行きたかったので、ロープをまたいで活火山の縁まで行った。山頂までダッシュしなければならなかった。一番高いところに着くのに噴火口の周りを10分歩いた。噴火口から出てくるガスはとても気持ちいいものではなかったので、写真を撮り終えると、できるかぎり早く下へ向かった。 ツーリスト・インフォメーションセンターの屋根の下でキャンプをした」 151日目 テレビの日! ベン―「今日は、本気で早起きをした。待ち合わせの約束があったからで、ジャーシュと美穂子が迎えに来てくれる時間までに16キロ歩いて山を下りた。このすてきなカップルは、製作中のテレビ番組のためにとても一生懸命やってくれているだけでなく、美穂子は僕たちのウェブサイト(僕たちのウェブページを全部!)を日本語に訳してくれている最中だった。そして、今はこうして僕たちを迎えにも来てくれた。 彼らの車でレストランに行き、そこで僕たちはランチの招待を受け、プロデューサーとかわいいカメラクルーと一緒にお昼をした。その番組(eジェネ)は、チャリティーと旅についてだけではなく、旅の途中でインターネットなどのテクノロジーを使っていることにも注目していた。(インタビューの様子が、 e ジェネのウェブサイトで見られます。――トレッカーたちののイラストもチェックしてみて。ココをクリックしてください。――編集者) 日本中で、この旅に対する関心や、その目的が大きくなっているのを知るのはとてもエキサイティングだ。 インタビューが終わったあと、僕たちはピックアップされたところまで戻って距離を稼いでいる間に、デブラを駅に残して足を休ませ、ティムが来るのを待ってもらった。デブラのところに戻ってくると、まるで魔法のようにティムが駅から現れた…お互い喜び合った! 川のそばのパークゴルフコースでキャンプをし、通りかかった人からとてもおいしいきゅうりをプレゼントされた…人生は甘い」 152日目―22.5km リラックス アンド ショート ポール―「今のティムは、僕たちがとても楽な生活をしていると思っている。長い朝食、長い休憩、歩くのは数キロ、誰かが車で迎えに来て、その人の家に泊めてもらって1日が終わる。ティムは、僕たちと旅する初日がたまたまいい日に当たっただけさ。 最初の計画では、大きな道路と山1つを歩くことだったが、アンドレ(泊まっていいと言ってくれた、また別の気前のいい長野県のJET)が迎えに来ることができるのは夕方の短時間だった。全部いっぺんにやってしまうことはできないということと、富士山へ日程通りに着くためにはどっちにしてもヒッチハイクをしなければならないだろうから、それほど急がなくていいということが、すぐに分かった。 その日は猛烈に暑い日で、景色もわくわくするようなものはなかったので、その日のペースは落ちた。3時半には車に乗り込んで、6月28日ぶりの全日休みへと向かった。 また電話が、今日のハイライトを運んできた。A-JETが、東京のJETオリエンテーション会議の時に、僕たちのために便宜を図ってもいいと言っている(コーナーを設けて、話をさせてくれるそうだ)、とペニーが喜んで言ってきた。少なくとも、これでとても多くの人に僕たちが何をやっているのか話すことができるということだ。 その晩、チームは2つに分かれた。ベン、デブラ、ティムは、アンドレとケイト(アンドレの町にいる別のJETで、アンドレが料理をしている間、実際に僕たちを迎えに来てくれたのは彼女だった)と一緒にパーティーに行き、トムと僕(少数派)は、居残ってチーム宛てのEメールに返事を出したり、ビデオを見たりした(そして少し眠った)」 153日目 泳ぎに行く人? ポール―「いつものように1日たっぷり使って、ウェブページを更新しようとした。この辺りには山がたくさんあったので、各週日記を書くという僕たちの作業はテントの外に飛んで行ってしまったのさ(僕たちの週休と一緒にね!)。ところが、部屋の中にいても今日は暑くて、ティムは渓谷にある深い川や、高いところからのジャンプ、遊べる岩場の話をして、僕たちをパソコン(とってきつい仕事)から離れるようにそそのかした。 彼の話は全て本当で、みんなとても楽しんだ。楽しみすぎてしまって、長居しすぎてバーベキューに行く時間がなくなり、ライオンズ対オーストラリアの試合を見逃した。そのかわり、帰る途中で食料を買い、ケイトの家で何もしないで恐いテレビを見ていた。リラックスした、いい1日の終わりだった」 7月15日 日曜 154日目―27km ポール―「ばたばたと慌しく、タイプして、食べて、パッキングし終わり、みんなでアンドレの家のドアを出ようとしたその時、僕は電話がどこにあるのかみんなに聞いた。プロのハイカーにしては、僕たち全くのばかをやるんだ、時々ね! 昨日、高いところからのジャンプしたり、ロッククライミングをして僕たちとても興奮していたから、携帯がなくてもハッピーに帰ってしまったのさ。いつか取り戻せるだろう。JETはその岩場によく行くから。 ケイトは僕たちの別の頼みを聞いてくれて、おととい彼女が僕たちを迎えに来てくれた村にまた連れていってくれた。僕たちがやっと歩き始めたのは正午で、太陽はぎらぎら焼けていた(デブラは、ヒッチハイクした)。アスファルトの上を歩いて山の4分の3登り、山頂へはとても長いルートを選び(そうすればバッグパックを置いておけた)、午後5時『醜い』山頂になんとか着いた。 覚えておかなければいけないのは、この山は百名山の1つとして選ばれた時はずいぶん違っていたという山の1つだということだ。まず、山頂の平原はアスファルトの道が続いている(僕たちは避けた)。そこには、美術館もある。牛の群れが牧草を食べ、本当の山頂の柱を見つけるのが難しかった。なぜなら、大きなホテルと携帯電話の電柱が立ち並んでいるその後ろにあったからだ! ヘッドランプの助けを借りて山を下り、カフェ兼お土産屋のバルコニーですぐにキャンプを立てた」 蓼科山(2530m―54番目の山) 7月16日 月曜 155日目―37.5km ポール―「ティム・クラフトは今まで3日間僕たちと一緒にいるけれど、『ちゃんとした』旅(かなりの距離を歩いたり、結構きつかったり、つまらなかったりなど)を経験してはいなかった。僕たちは、今日その状況を変えた。道路をかなり歩き、日差しは暑く、また別のつまらない(しかも混んでいる)山に登り、午後、雲の中を永遠に登っているかと思われた2番目の山ですべてが締めくくられた。別に一緒に歩いてくれる人たちの目に映る苦痛を見たいわけじゃないよ。以前の生活に戻そうとしているだけだ。ただ、僕たちは5ヶ月間の準備運動ができているのを忘れていたんだ。デブラとティムの2人は僕たちと一緒にいて大変だったよ――僕たちと一緒に痛みをがまんしてくれて本当にありがとう。 53番目の山は、片方には上まで来ている道路があって、もう片方には頂上までスキーリフトがあった。言うまでもなく、そこは人がうじゃうじゃしていて、学校の集団、日帰り旅行者、お年寄り、赤ちゃん。そして、すごく汗をかいて、大きな荷物を持っている外人5人(ああ、変な顔で見られたよ)。54番目の山には午後4時に登り始めたので、人はいなかった。 キャンプをする前に山頂に着こうという計画だったが、登山は予想していたよりきつかった。だから、山頂近くで小屋から水を『借りて』、暗い中キャンプを張った。そこは保護されている花畑の上だった(暗かったんだ!)」 156日目―24km 八ヶ岳登り始める…実際は4つ岳? ベン―「僕たちは、キャンプのそばにある山小屋に泊まっていた客の不満の対象になった。僕たちがテントをたたんでいると、1つのグループが見に来て、出て行くように言った。たぶん、僕たちは寝るために一銭も払っていないのに、彼らは高いお金払っていたからむかついたんじゃないかな。 間もなく、みんな高い道路でティムにさよならをした。ティムは究極のヒッチハイク・テクを披露した。交差点で止まった男にティムは大声で言うのだ『一緒に行くよ』。 八ヶ岳の肩まで登っている時、山で遠足をしていた大勢の小学生たちを通りすぎた。最初はいい時間を過ごしたが、ああなんていうことだろう、話しこんでしまったので方向感覚を鈍らせ、違うところで曲がってしまった。 へまを正したすぐ後、キャンプをして落ち着いた途端、ひどい雨が降ってきた」 7月18日 水曜 157日目―20km ベン―「昨日のミスを取り返すために4時半に起き、8つの峰のモンスター、八ヶ岳に備えた。 美しい日の出が山々をさわり、それはぎらぎらと大きくなっていった。山頂に向かってすごい人数の列を見て僕たちは驚いた。すぐに、有名な美しい山脈の上で列に加わった。 一番高い山頂で、かなり年を取った登山者たちのグループに会った…みんなロープでつながっていた。彼らは自分たちを縛り、すばらしく団結していた。なんか、興奮して自分たちを解き放った学校の生徒たちを見ているようだった。 山梨県へ下りていくのに3時間半かかり、午後3時半にヒッチハイクを始めた。僕たちは八ヶ岳を去り、富士山に登り、ビザの問題をどうにかして、東京で旅の宣伝をした後に、約4週間後またここへ戻ってくる。その晩、アンドレの家に到着して、2日間の書類作業が始まった」 158日目 プレスリリース発行 トム―「4日間で山4つ登った後、一休みすることはいいことなんだろうけど、僕たちにはやらなければいけないことがあるのさ! 旅の半分を終えたので(55山と距離3500km以上達成)、チャリティーの援助をできるだけ多く得るために、クライマックスの富士登頂前の日々を作業に費やした。 プレスリリースを書いて(それには、ベンが落ちたことが生々しく描写されている)、新聞社、アウトドア雑誌、ラジオ局に送った。地元の新聞社やラジオ局にコンタクトを取ってくれた僕たちの親にとても感謝している。 近所に住んでいるティムが、僕たちに会うためにひょっこり現れた。僕たちが味わせた3日間の拷問から、彼が完全に回復しているのを見ることができてよかった。 日中、僕たちはがんばって、日本を出るためにどんな方法でもいいからチケットを取ろうともしていた。キャットが彦根から旅行会社に電話して、国外に行くフライトを7万円以内で取ろうとしていた。僕たちが欲しい日に、そういうフライトは全くなかった。残された選択は、フェリーでグアムに行くか(とても長い旅だ!)、韓国の釜山に行くか、どちらかだ。フェリーのチケットは取るのが大変なのに、キャットはなんとかして釜山行きのチケットを25日出発、28日帰国で取ってくれた。 キャット、この大変な仕事をやってくれてありがとう!」 159日目 富士山用の食料 トム―「今日もタイプとEメールをしていた。今日のハイライトは、富士山用の食料を買いに出かけたことだ。 この旅で僕たちを助けてくれた人たちにできるだけ多く声をかけ、7月21日に僕たちと富士山に登らないか聞いていた。僕たちから感謝の印として、日の出を見ながら噴火口の縁でチーズとワインのパーティーをやろうと決めたのだ。 ポールと僕は少なくとも1時間かけて、おいしいチーズ(日本で手に入れるのはとても難しい)、ビスケット、ワイン、そしてチョコレートを求めて、地元のスーパーマーケットの棚を探し回った。 僕は、アンドレにスペシャル・サンクスを言いたい。僕たちを家に泊まらせてくれて、パソコンを使わせてくれた彼に。彼自身は、タイで日焼けをしていたんだ。PRをしている僕たちにとって、このような援助は極めて重要だ。ケイトにも感謝を述べたい。パソコンを使わせてくれたし、彼女のキレた猫と遊ばせてくれたから」 7月21日 土曜 7月22日 日曜 160、161日目 死の地帯へ ポール―「その日は、土曜の朝5時に始まり、日曜の夜11時まで終わらなかった! 激しい出来事のせいで、僕たちのゲストはみんな高山病に苦しみ、僕たちは文字どおり歩いている間に眠りながら、山のふもとに帰ってきた。 もちろん、詳細のすべてを知るには本を読んでもらわなくちゃいけないけれど、少しだけここで話すよ! アンドレの家から高速道路へヒッチハイクするのにすこし時間がかかったけれど、やっと車に乗せてもらえて(派手な紫色の前髪をした女性だった)、高速道路の料金所のところで下ろしてもらった。次のヒッチハイクで、富士の登山口まで行くことができた(これも運が良かった!)。時間がかかり、何回か違うところを曲がったりしたけれど、ようやく5合目までいいペースで登れるようになった。2合目で、いっぱい詰まったバックパック2つを置いてきたのがよかったのだ。山頂に持って行くものは、たくさんの服と、『富士山の食料』(お祝いのワイン、チーズ、ビスケットにクッキー)だ。 8時間登り(99.9パーセントの登山者はしないことだ)、5合目に入った。そこは大きいだろうなと思っていたけど、ホテルやお店、レストラン、駐車場を2300メートルのところで見るとは予想していなかった。 残り1476メートルを登る前に2時間半休みを取り、その間、夕飯を作ったり、他のメンバー(トム【Thom】、美穂子、ジャーシュ、そしてレイチェル)を待っていた。デブラの家族から届いたものすごい量のチョコレートに感激し(スチュワート夫妻、ありがとう)、夜10時半には富士登頂への準備ができた! 天気は雲がなく、静かで、暖かかったので、Tシャツと短パンで大丈夫だった(一旦歩き始めるとね)。 登山をどう表現したらいいんだろう? 小屋の光っている柱を抜けてくねくね曲がっている暗い道? 折り返しの度に座りこみ、呼吸を整え、体力とやる気を回復しようとしている人たち? たくさんあるめいめいの小屋で休んでいる集団? というより、単純に小屋が多いってことを言おうか? 僕は長くてつらい砂の道を苦労して歩くんだと思っていたんだけど、うれしいことにかなりの距離の登山の中に簡単な硬い岩を這い登ることもあった。砂利や砂もあったけど、それは山頂とふもとだけだった。午前2時、僕たちは厚い雲の中にいて、下の様子にほとんど気づかなかった。 登山の最後のほうは、日の出の前に山頂に着こうとして、人の列を抜ける激烈な争いになった。それは、足の踏み場を探し、隙間に入りこんだり、わき道を急いだり、列の間を縫って歩いたり、何百ものウォーキングポールから身をかわしたりということだ。 こうした事柄を避けるために、トムは固い岩の上にまっすぐ登っていける自分だけのルートをつくり出した。その報いとして、後からとても怒った山のガイドが山頂でトムに話し掛けてきて、シャツをつかみ怒鳴りつづけた! 他のメンバーが山頂に近づくと、夜明け前だったし、高い所にいて寒いので着ていたウィンドブレーカーのジャケットとフリースの色が見えてきた。夜が明けるころ、僕たちみんな山頂か、その近くにいた。僕たちは、壮大な景色に恵まれた。富士はやはり最高だ。太陽は、僕たちの下に点在している雲の上をみごとに昇り、全てのものを大変見事に映し出した。富士に関して言えば、この山は下の谷からまっすぐ上に伸びていて、山脈の一部ではないために、景色を見れば登山や高度の苦しみにも価値あるというものだ。 鍵のかかったドアのところに座り、富士山の食料を開けて(チョコレートは上がって来る途中ですでにかなり減ってしまっていたけどね!)、縁を回って本当の山頂へ向かう前に、暖かい日差しを満喫した。 高度の苦しみが始まった。レイチェルは何にも見ることができず、ただ座ってクッキーを1つかじった。ジャーシュと美穂子はすこしだけ食べて、それから眠りについた。トム(Thom)はかなりの量の食料と飲み物にがっついたので、山頂に登る途中でひどいことになった。デブラは山頂に行くために少しの間眠って起きたら、とてもふらふらしていて立てなかった。僕たち3人、鍛えられた山男たち(じゃーん)は、疲れてはいたけれど、それ以外に問題はなく、僕たちだけで縁を回って本当の山頂に向かった。本当の山頂は、大きくて古い気象観測所に隠れていた――そんなものさ。 そこはとても変な世界で、何もなくて、月みたいで、今日は下にある青々とした谷の景色にぐるっと囲まれていた。 デブラは隠された力を発揮して、山頂のちょっと手前で僕たちに追いついた。ジャーシュと美穂子はみんなより先に下へ戻っていた。かわいそうなレイチェルは、その二人に付いていき損ねたので、一人で下りる力もなく僕たちを待っているしかなかった。ベンは、ダニエルの下着をうやうやしく大きな噴火口に投げ入れた(長い話なんだ――彼に聞いてよ!)。トムは疲れて5分の睡眠を取るために崩れたが、岩を投げられ、揺らされ、ベンが止めさせる歌を歌った。 クレイジーな時間だった。レイチェルにとっては悪い意味でだ。僕たちは、彼女をすぐに下に連れて行くべきだったんだろうが、それと同時に山頂にも行かなくてはならなかった――はじめて僕たちは高山病と山頂に行くことを天秤にかけるという問題を持ったのさ! 何回か彼女を運んだり手助けしたりする手段と、レイチェルの歩きつづける内なる強さをもって、いいペースで下りの『砂の道』を突進することができた。いったん約3000m以下に下がると、レイチェルはすばらしい回復を遂げ、5合目までの残りの道は助けがなくても歩くことができた。高度の威力を示す驚くような例だ。富士の下りのルートは、登りのルートがそうでないように僕が願っていたことだった。頂上から下までざらざらの砂利だったのだ。でも、下りはそれでよかったのだ。疲れたひざにやさしく、疲れた心にゆるやかだったから。 トム(Thom)は下り始めるとすぐに元気になった。ジャーシュと美穂子は早く下山して睡眠を取った。デブラは山頂で僕たちに追いついてから調子がよかった。だから、信じられないほど混んでいた5合目で別れる時までには、全員また健康で幸せだった(ちょっと疲れていたけどね!)。 残念ながら、僕たちはこれからさらに山の下の半分を下りて、東京にヒッチハイクしなければならなかった。富士登頂の中でもこの部分(日曜正午から午後5時半)は、たぶん一番変だった。富士後半の道は、(ほとんどのところが)広くて、足元は歩きやすく、とてもなだらかな下りになってふもとまで続いていた。午後2時までこういう状態だったので、僕たちは居眠りしてしまうのと戦っていた。ベンは、ある時点ではまだ立っているのに気が付いていたが、山道脇の森の中でどうやってそこに行ったのかまったく記憶がなかった。デブラは、歩きながらちょっとだけ(白昼夢ではない)夢を見ていたと言った。きっと、僕たちは側から見たら酔っ払いが道をふらふら歩いているように見えただろう。もし、休憩で腰を下ろしたならすぐに眠ってしまっただろう。なんだか、長い電車の旅で寝ないようにしているみたいだった。でも、僕たちは車両に座っていたわけでもなく、歩いていたのさ! やっと、僕たちはこの冒険を開始した道路に戻ってきて、ヒッチハイクするところで着替えた後、車に乗せてもらって高速に戻った。道端に座って、車が次から次へと走り去って行くのを見ている間、うるさい一定間隔で鳴る爆竹の爆発(この辺りの農家が使っている鳥除け)が僕たちの疲れた神経にさわった。 ついに心やさしいドライバーが止まってくれたが、彼は高速を降りてから僕たちを見たので反対側の道路で止まった。彼がちょっと立ち寄って教えてくれたことには、東京へヒッチハイクするのは、ばかげているということだった。時間が悪いし、それに日曜日だからだ(日帰り旅行の家族で車はいっぱいなのだ)。そして、彼は近くの駅に連れていってもかまわないと言ってくれた。僕たちは、折れた。すぐに辺りは暗くなるだろうし、僕たちは疲れていた。電車はお金がかかるだろうけど、どうでもいいよ! デブラは自分にお金があると言い、僕たちに切符を買わせなかった。席にみんな倒れこみ、ただ座れたということがうれしく、誰とも話しをしなかった。夜10時には、トム(Thom)のリビングに座っていた。11時には全員深い眠りについていた」 162日目 昼になるまで、世界が存在していたことに気が付かなかったよ ベン―「今日は、この旅では1番遅くまで寝ていた。ポールは、僕たちの疲労状態をこう言ってまとめた『目が覚めるまで、世界が存在していたことに気が付かなかったよ』(テントのなかでは3、4回夜目が覚めるのだ)。あまりやることがなかったけれど、トム(Thom)とシボーンのつつましい住居を散らかしている道具をまとめた。ビデオを見ながら、このだらだらした1日は終わった」 163日目 彦根に行く…テイク 3 ベン―「3週間は、デブラがゲストからチームメンバーになるのに十分な期間だった。だから、彼女を駅で見送るというのはとても変だった。僕たちがしている生活をじかに体験し、僕たちのために生活を豊かにしてくれた。彼女がいないと寂しくなるけど、体育を学ばなくちゃいけない子供たちがたくさん故郷のオーストラリアで彼女を待っているのだ。 その後は、文字通り最高に安くて、遅くて、居心地の悪い電車で彦根に行った。キャットからフェリーの切符を受け取るためだ。 僕は、パスポートに別のスタンプが押されるのをとても楽しみにしていた。それに、韓国でのまた違った生活を見るチャンスにも。それに…、登山用具が安く買えるってことも聞いたんだ! 韓国に、早く行きたい!」 164日目 速い弾丸より速く トム―「僕たちは夜明けに起きなければならなかった。(小さな町にいちいち止まる)遅い電車で下関(出航する港)にたどり着くためだ。眠そうなキャットにさよならを言って、始発をつかまえるために駅まで走った。 時間が経つにつれて、この遅い電車では時間までに港に着くことができないだろうということが分かった。僕たちは、新幹線の切符を買った。遅い電車だったら4、5時間かかった距離を1時間で走った。港には時間通り着いた。 下関から出航すると、九州と本州をつなぐ橋が見えて変な感じがした。3月にポールと僕はそこにいたのだ。船の風呂で肌を焼いた後(韓国人は熱いお湯が好きなんだ!)、他に5人とシェアしている僕たちの部屋に倒れこんだ」 165日目 「そして、釜山へ渡るフェリーは…」 トム―「朝の9時に船は釜山に入航し、この旅で僕は初めてポールとベンの立場に立った。一言もみんなの言っている事がわからない。 すぐに、ツーリスト・インフォメーションを見つけ、安いホテル(3人部屋で一晩15ポンド)の行き先を教えてもらった。ちょっとだけ眠った後、釜山の通りをぶらぶらし、レストランや屋台でごはんを食べた。 夜、映画館に『トゥーム・レイダー』を見に出かけた。ポールとベンがコンピューター・ゲームのファンなのだ。みんな映画にはまったく感動しなかったけれど、日本で見る4分の1の料金で見られたことだけはよかった」 166日目 1 日中ぶらぶら ポール―「朝の11時になるまで、その日は始まらなかった。その時点で、みんなお腹が空いてベッドにそれ以上いられなくなったのだ。いつもより遅く寝ていることは、時にはいいものだ。 たぶん、僕は韓国にいる機会をフルに活用しなかったと言えるだろう。朝、ベンとトムは近くのビーチに出かけて行って、ベンは登れる岩を必死に探しまわった(そして、見つけることができた)。僕は、朝、そして午後も少し、韓国観光局が提供している無料のインターネットを使うためにパソコンの前に座っていた。ないがしろにしていた友達とできるだけ連絡を取るためだ。 夜、きちんとした韓国の食事をしに出かけた。ドーナッツみたいなものが最後に出てきて、昨夜と同じくらいそれはおいしかった! あの夜、自分たちが何を頼んだか分からなかった(今でも分からない)。他の人が食べているのをただ指差しだだけなのさ! それから、個人個人自分のやりたいことをした。自分だけの時間だ。大抵それは、ダウンタウンをうろうろしたり、他の映画のことをじっくり考えたり、詩を書いたり(これは、ベン)、部屋でテレビを見たりということだ。何でもやれるということを楽しんでいたのさ」 167日目 残り物 ポール―「夜7時にフェリーは出航した。その日は、大韓航空で帰るフライトの問題を解決しようとしたり(もうちょっとで解決しそうだった)、アウトドア・ショップを見てまわったり、Eメールをもっと書いたり、2、3日分の食料を買ったりした。 フェリーに乗ったとき1900ウォン(1ポンドちょっとくらい)しか持っていなかったので、ベンは食堂にぶらぶらと行って残り物を買えないか聞いてみた。マネージャー(英語がとてもうまかった)は、僕たちのことをすごく貧乏なのだと思い、カレーとご飯を人数分くれて僕たちの1900ウォンを受け取ろうともしなかった! ずうずうしく聞くってことは、時々本当に得をする。 おなかいっぱいで幸せに眠った。釜山で予想していたよりずっといい休日が過ごせた」 168日目 電車 ベン―「安い電車はつらい。電車の旅は、サイテーだ! これは、下関から東京まで24時間の壮大な旅を所々で歌った公式のチーム賛美歌だ。 たった1つの助けは、おそろしく悪い60センチのピンクのソーセージを2つ買ったことだ。本当に『ピンクパンサー』みたいなピンクで、味が悪いのは僕が保証するよ。 港を朝9時に出て、東京に次の日の朝4時半に着いた。トム(Thom)のいる町田に行く電車が動くまで、そこで3時間待たなければならなかった。 けれども、みんなハッピーだった。日本に滞在するための試みはうまくいき、僕たちはこれから3ヶ月のビザを持っている堂々とした旅人になった。この次まではね…」 169日目 東京とペニー ベン―「トム(Thom)のアパートはまだまだ余裕があるというかのように、もう1人来た。でも、ペニーはとても小さいから、いつでも余地はあるのさ。 ペニーの日本3年間の滞在がもうすぐ終わるので、僕たちはちょっとしたパーティーを計画した。イングリッシュパブでジェームズボンドのサウンドトラックで何杯か飲み、ピンポンをした。僕にとって、やっと声の主に会えたことはすばらしかった。 日本でのペニーの援助は、僕たちが手渡すパンフレットを日本語で書いてくれたり、僕たちのEメールをチェックしてくれたり、電話でそれを読んでくれたりということが列挙できる。修士号を取るために行くスコットランドからも手助けしてくれると言ってくれた。ペニー、がんばれ!」 170日目 JET に話をする トム―「ペニーがピンポンで僕を打ち負かしたことはともかく、彼女と会えてよかった。だから、彼女にさよならを言うのはつらかった。彼女は、僕たちのために通訳をしたくれたり、チャリティー用の口座を作ってくれたり、ウェブページを作るエイダンを助けてくれたり、食事をおごってくれたり、滞在するところを用意してくれたりした。 来週必要なものをパッキングした後、トム(Thom)のところを去り、新宿(東京の摩天楼地帯)へ向かった。JETの会議でアダプト・ア・マインフィールドの宣伝をするためだ。 ところで、『JET』とは英語のアシスタント・ティーチャーのことで、日本全国の中学や高校で働いている。僕は、1998-1999年の間、北海道のJETだった。 僕たちの一番ましな服(ハイキングブーツ、ノースケープのポロシャツとズボン)で京王プラザにぶらっと入っていきブースを立てた。日中、僕たちは旅とチャリティーのことを説明した何百枚ものパンフレットを配った。多くの人が興味を示してくれて、メーリングリストに名前を書いてくれ、気前のよい寄付を申し出てくれた人たちもいた。 泊まる場所の問題は、偶然アンジーという女の子に出会って解決した。彼女は、長野にいた時に会ったことがある子だ。彼女の泊まっているホテルの床で僕たち3人寝ていいと、鍵をくれたのだ! ホテルのプールで気持ち良く泳いだ後、アイリッシュパブに行って、アンジーや他の新しいJETのグループと会った。その夜の終わりにニーナ(アンジーのルームメイト)は彼女が書いた歌を何個か歌ってくれた。彼女は美しい声を持っていて、眠ってなどいられなかった」
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